弓は、世界各地で古くから使われてきた道具です。
狩猟や戦いのために生まれた弓は、時代や社会の変化とともに、その役割も少しずつ変わっていきました。
武器としての役割を終えたあとも、弓術そのものが消えてしまったわけではありません。競技として残ったり、祭りや神事と結びついたり、身体や精神を鍛える文化として受け継がれたりしています。
では、同じ「弓を射る」という技術が、なぜ地域によってこれほど違う形で残っているのでしょうか。
この特集では、日本、韓国、モンゴル、ブータン、イギリスなどの伝統弓術をたどりながら、それぞれの土地で弓がどのように使われ、どのような文化へと受け継がれてきたのかを見ていきます。
さらに、弓術を国民に練習させる法律が存在した時代にも注目します。
弓という一つの道具を通して、武術・スポーツ・祭り・神事・教育・国家との関わりを見ていくと、世界の身体文化の違いも見えてきます。
目次
・【1】日本|「射る」技術から「道」へ
・【2】韓国|武術から「弓場」の文化へ
・【3】モンゴル|馬とともに受け継がれる弓術
・【4】ブータン|弓術が祭りになる国
・【5】イギリス|戦場を変えたロングボウ
・【6】昔の国はなぜ弓術を義務づけた?
・【7】まとめ
【1】日本|「射る」技術から「道」へ
日本の弓といえば、まず思い浮かぶのが「弓道」ではないでしょうか。
静かに立ち、弓を構え、ゆっくりと弦を引き、的を射る。
現在の弓道には、姿勢や呼吸、動作の美しさ、礼法などが重視され、「弓を射ること」そのものが一つの修養として受け継がれています。
けれども、日本の弓の歴史をたどっていくと、その原点はもっと実用的なものでした。
狩猟や戦いのための道具として使われていた弓が、武士の時代になると重要な武術となり、やがて「道」としての文化へと変化していったのです。
<1-1>なぜ日本の弓は、こんなに長い?
日本の弓を初めて見ると、その長さに驚く人も多いでしょう。
現在の弓道で使われる弓は、一般的に約2.2mもあります。
しかも、真ん中を境に上下が同じ長さではありません。
日本の弓は、上側が長く、下側が短い「和弓」と呼ばれる独特の形をしています。
この形は、単純に「馬に乗って使うために長くなった」というわけではありません。
日本では弥生時代にはすでに長弓が使われていたとされ、長い弓そのものには非常に古い歴史があります。
その後、武士が台頭すると、弓は戦闘技術として大きく発達していきました。
特に重要だったのが、馬に乗りながら弓を射る「騎射」です。
平安時代後期から鎌倉時代にかけて、武士にとって馬術と弓術は重要な技術となり、馬上から自在に弓を射るための技術が磨かれていきました。
日本の弓が独特の非対称な形をしている理由については諸説ありますが、馬上で扱う際の使いやすさとの関係も指摘されています。
🔽【動画】弓道
<1-2>武士の時代、「弓を射る」ことは戦う技術だった
この文化を現在に伝えるものの一つが、神社などで行われる「流鏑馬(やぶさめ)」です。
流鏑馬では、疾走する馬上から的を射ます。
馬を操りながら弓を引くには、馬術、身体のバランス、弓を引く技術、距離を測る感覚など、さまざまな能力が必要です。
そのため、武士にとって弓術と馬術は切り離せない技術でした。
現在では神社の祭礼として奉納されることが多く、各地で行われる流鏑馬は、武士の時代の騎射文化を今に伝えるものとなっています。
🔽【動画】流鏑馬(やぶさめ)
<1-3>「どれだけ当てられるか」を競った日本の弓
日本の弓術には、騎射だけではなく、どれだけ遠く、どれだけ多くの矢を射られるかを競う文化もありました。
その代表が通し矢です。
江戸時代、京都・三十三間堂では、長い堂の軒下を利用して、約120m先にある的へ矢を射通す競技が行われました。
特に有名なのが「大矢数」と呼ばれる競技です。
一昼夜にわたって大量の矢を射続け、その的中数を競いました。
ここでは、現在の弓道で重視される「美しい射法」だけではなく、
持久力
集中力
正確性
射る速度
といった能力も問われました。
弓は「一発を正確に射る」だけの道具ではなかったのです。
🔽【動画】京都・三十三間堂で新成人の「通し矢」
【2】韓国|武術から「弓場」の文化へ
韓国にも日本と同じく、古くから弓術の文化があります。韓国では伝統弓術を「国弓(Gukgung/국궁)」と呼び、古代の高句麗時代の壁画にも弓を射る姿が描かれています。高麗・朝鮮時代になると、弓術は軍事技術としてさらに発達し、武科の試験科目としても重視されました。
しかし、弓術は軍事だけにとどまりません。朝鮮時代には、弓を射る行為が儀礼や祝祭、精神修養とも結びつき、弓術を学ぶ人々が集まる「射亭(サジョン)」と呼ばれる弓場が各地に整備されました。こうした弓場は、技術を磨くだけでなく、人々が集い、競い、伝統を守る文化的な場として受け継がれていきました。
韓国の伝統弓の特徴は、日本の和弓とは対照的な小型の反曲弓(複合弓)です。角・木・竹・腱など複数の素材を組み合わせた「角弓(Gakgung)」と呼ばれる弓で、サイズは小さいものの強い反発力を持ちます。つまり、日本の「長く大きな弓」に対して、韓国では「小さくても強い弓」が発達したのです。
韓国のオリンピック・アーチェリーの強さは、伝統弓術がそのまま競技化したわけではありませんが、長い弓術文化が近代アーチェリーの土台の一部となったことは、韓国独自の強さを考えるうえで興味深いポイントです。
🏹 用語の違い
- 国弓(Gukgung) 現代韓国で公式に使われる伝統弓術の名称。学術的にも一般的で、伝統弓術そのものを指す。
- 弓道(Gungdo) 直訳は「弓の道」。近代以降に使われるようになった語で、英語圏ではこの名称が広く知られている。
- 角弓(Gakgung) 弓そのものの名称。伝統弓術(Gukgung/Gungdo)とは別で、道具名を指す。
🔽【動画】韓国の伝統弓術(Korean Traditional Archery)
【3】モンゴル|馬とともに受け継がれる弓術
モンゴルでは、広大な草原を移動しながら暮らす遊牧生活の中で、馬は移動や牧畜だけでなく、狩猟や戦いにも重要な存在でした。
そのため、馬を操りながら弓を扱う技術も、モンゴルの歴史や生活と深く結びついてきました。
現在、その文化を象徴するのが、毎年7月に行われる「ナーダム(Naadam)」です。
ナーダムでは、
競馬
モンゴル相撲
弓術
の三つが主要な伝統競技として行われます。
弓術は単なるスポーツではなく、モンゴルの遊牧文化や歴史を受け継ぐ伝統の一つです。ナーダムそのものも、2010年にユネスコ無形文化遺産に登録されています。
競技では伝統的な衣装を身につけ、弓を射る技術を競います。勝者には称号が与えられるほか、選手を称える歌や詩が披露されるなど、競技そのものが祝祭の一部となっています。
競馬、モンゴル相撲、弓術という三つの競技が一緒に行われるナーダムには、モンゴルの人々が大切にしてきた馬・身体技術・遊牧文化が凝縮されています。
日本では弓術が「道」や神事として受け継がれているのに対し、モンゴルでは弓術が民族の祭りと結びついた競技として現在も生き続けているのです。
ナーダムは、国を挙げて祝われる大きな祭りです。毎年7月には首都ウランバートルで国の公式ナーダムが開催される一方、各県や郡などの自治体でも、それぞれ地域のナーダムが開かれます。
そのため、ナーダムは首都だけで行われる国家行事ではありません。モンゴル各地で競馬・モンゴル相撲・弓術が行われ、人々が家族や友人と集まって競技を楽しみ、歌や踊り、伝統料理などを味わいます。
国の祭りであると同時に、それぞれの地域に根づいた身近な祭りでもある。
それがナーダムの大きな特徴です。
🔽【動画】モンゴルの弓術
【4】ブータン|弓術が祭りになる国
世界の伝統弓術を見ていくと、ひときわ興味深い国があります。
ヒマラヤ山脈に位置するブータンです。
ブータンでは、弓術が国技。
しかも、単に「昔からある伝統スポーツ」として保存されているわけではありません。村や町、地域のチームが大会で競い合い、宗教祭や祝日にも弓術大会が開かれるなど、現在の暮らしの中で盛んに楽しまれています。
<4-1>なぜ弓術が国技になったの?
ブータンで弓術が国技に指定されたのは、1971年。
この年、ブータンは国連に加盟し、国際社会への参加を進めていました。その際、弓術はブータンを象徴する国技として正式に位置づけられました。
ただし、これは「国王が新しく弓術を国技として作った」という話ではありません。
弓と矢は、それ以前からブータンの歴史や社会に深く根づいていました。
かつては戦いや狩猟にも使われた弓術が、平和な時代になると競技や娯楽へと姿を変え、村同士の対抗戦などを通して受け継がれてきたのです。ブータン弓術連盟も、平和な時代には弓術が戦いではなく、大会や娯楽として行われるようになったと説明しています。
そして、王室も弓術と深く関わってきました。
歴代の国王や王族自身が弓術をたしなみ、特に第2代国王ジグミ・ワンチュクは熱心な弓術愛好家として知られ、大会を開催するなど、その普及にも力を入れました。
そのため、1971年の国技指定は、ゼロから弓術を普及させたというより、もともと人々の間にあった文化を国家の象徴として正式に位置づけた出来事と考えると分かりやすいでしょう。
<4-2>なぜ、国民はそこまで弓術に熱中するの?
「他に娯楽が少ないから人気なのでは?」と思うかもしれません。
確かに、かつてのブータンは現在より娯楽や交通、情報手段が限られた社会でした。テレビ放送が始まったのも1999年です。
しかし、現在の人気を「娯楽が少ないから」と説明するのは適切ではありません。
弓術がこれほど親しまれている最大の理由は、競技であると同時に、人々が集まる社交や祝祭の場になっているからです。
ブータンでは、多くの村に弓場があり、村同士や地域同士で大会が行われます。宗教祭や祝日にも弓術競技が開かれ、一年を通してさまざまな大会が開催されています。
しかも、その雰囲気は日本の弓道とはかなり違います。
日本の弓道では、射手が静かに集中して的を狙う姿が印象的ですが、ブータンの弓術大会はとても賑やかです。
選手が的中すると、仲間が歌や踊りで喜びを表現します。
反対に相手チームは、歌や踊り、声援などで射手をからかったり、集中を乱そうとしたりすることもあります。
会場には食事や飲み物も用意され、観客も一緒になって盛り上がります。弓術の試合を見に来たはずが、いつの間にか地域の人々が集まる大きな社交の場になっているのです。
そのため、ブータンでは「弓が上手い人だけが楽しむスポーツ」ではありません。
選手として参加する人、応援する人、歌う人、踊る人、食事を楽しむ人。
それぞれが大会に関わることで、弓術が地域のコミュニケーションを生み出しています。
🔽【動画】ブータンの国技:弓術
<4-3>子どもの頃から身近にある弓
「ブータンの子どもは、みんな幼い頃から弓を習うの?」
という点については、全国民に一律の弓術教育があるわけではありません。
一方で、弓術が身近な環境で育つことは確かです。
村や町に弓場があり、家族や地域の大人が大会に参加し、宗教祭や祝日の行事でも弓術が行われる。
弓術は特別な施設へ習いに行く珍しいスポーツではなく、日常生活のすぐ近くにある伝統競技なのです。
伝統的な弓矢の製作技術も世代を越えて受け継がれてきました。竹などを使った弓矢作りはブータンの無形文化遺産の一つですが、近年は輸入されたコンパウンドボウなどの普及によって、伝統的な製作技術の継承が課題にもなっています。
🔽【動画】ブータン:弓術
【5】イギリス|戦場を変えたロングボウ
日本の和弓とは対照的に、ヨーロッパを代表する伝統弓の一つが、イングランドの「ロングボウ(longbow)」です。
ロングボウは、長い木の弓を使って矢を放つシンプルな構造の弓ですが、中世のイングランドでは非常に強力な軍事兵器として発達しました。
特に14~15世紀の百年戦争では、イングランド軍の重要な戦力となり、クレシーの戦い、ポワティエの戦い、アジャンクールの戦いなどで活躍しました。中でも1415年のアジャンクールの戦いは、イングランド軍の大量の弓兵がフランス軍に大きな打撃を与えた戦いとして知られています。
ただし、ロングボウが最初からイングランドの代表的な弓だったわけではありません。
近年の研究では、イングランドで長弓が広く軍事利用されるようになったのは主に14世紀以降とされ、それ以前には5フィート未満の比較的短い弓も使われていました。ロングボウの発達には、ウェールズやイングランドの軍事的な交流も関係していたと考えられています。
そして、ロングボウを特徴づけたのは、弓そのものの威力だけではありません。
強力な弓を使いこなすには、長期間の訓練が必要でした。そのためイングランドでは、弓術を軍事力として維持するため、国民に弓を所有して練習することを求める制度も設けられました。弓術は一部の兵士だけの技術ではなく、社会の中で広く身につけることが求められるものだったのです。
しかし、火器が発達すると、ロングボウは次第に戦場の主役から退いていきます。
それでも弓術そのものは消えませんでした。
16世紀にはすでに弓の的当て競技が行われ、1583年にはロンドンのフィンズベリーで、3,000人が参加したとされる大規模なアーチェリー大会も開かれています。戦場で使われていた弓が、少しずつ競技や余暇のための弓へと姿を変えていったのです。
現在でもイングランドではロングボウの製作や射撃が続けられており、伝統的な弓術はスポーツや歴史文化として受け継がれています。
🔽【動画】イングランド:ロングボウ(longbow)
コラム|昔の国はなぜ弓術を義務づけた?
中世ヨーロッパの弓の歴史を調べていると、少し驚く制度に出会います。
それは、国民に弓術の練習を求める法律です。
「弓が得意な兵士を育てる」のではありません。
一般の人々にも弓を練習させ、いざというときに国を守れる戦力として動員できるようにする。
現代の感覚からするとかなり大胆な発想ですが、当時のヨーロッパでは、弓術を国の軍事力として維持するための制度が実際に作られていました。
イングランド|休日には弓を射る?
代表的なのがイングランドです。
1363年、エドワード3世は、健康な男性に対して、日曜日や祝日には弓と矢を使って練習するよう命じました。
当時の王が問題視したのは、国民が弓術よりもほかの娯楽に夢中になっていたことです。
法令では、サッカーやハンドボール、ボウリング、テニスなど、さまざまな遊びが弓術の練習を妨げるものとして挙げられています。
「休日に遊ぶな」というより、
「遊ぶなら、国のためになる弓術をしなさい」
という発想だったのです。
背景には、百年戦争などでイングランドの長弓兵が大きな戦果を挙げていたことがありました。
しかし、強力な弓を持っているだけでは兵士にはなれません。
長弓を十分に扱うには訓練が必要です。
そこで国は、弓術を一部の専門兵士だけの技術にせず、一般の男性が普段から練習するものにしようとしました。
その後も弓術を維持するための法令は繰り返し出され、ヘンリー7世やヘンリー8世の時代には、家主に自分だけでなく使用人や子どものためにも弓を備えることを求める法律まで登場しています。
スコットランド|12歳から弓兵を目指す?
さらに驚かされるのが、スコットランドです。
1424年、ジェームズ1世は、12歳から弓術を身につけることを求める法令を出しました。
各地には弓術の練習場所を設け、特に教区教会の近くに標的を置き、休日にはそこで射るよう定めています。
さらに、武器の点検を行うための定期的な軍事召集も定められました。
これは、単に「弓を持っておきなさい」という武器保有の規定ではありません。
「子どもの頃から弓を扱える人を増やしておこう」
という、かなり組織的な発想です。
しかも、練習場所を教会の近くなど地域の生活圏に設けているところも興味深いところです。
フランスにもあった「弓兵を地域から出す」仕組み
フランスでは少し形が違います。
百年戦争末期の1448年、シャルル7世は「フラン・アルシェ(自由弓兵)」と呼ばれる民兵組織を設けました。
各教区から、弓を扱うのに適した人物を選び、弓や剣などを装備させ、必要なときには国王の命令で出動できるようにしたのです。
選ばれた者には、軍務の代わりに税の免除などの特典もありました。
また、日曜日や祝日には弓術の練習をすることも求められました。
イングランドのように「健康な男性全体に弓を練習させる」制度とは少し違いますが、こちらも地域社会から軍事力を組織する仕組みでした。
弓だけが特別だったわけではない
では、こうした制度は「弓だから特別に行われた」のでしょうか。
実際には、そうとも言い切れません。
中世ヨーロッパでは、地域の住民に武器を備えさせ、必要に応じて兵士として動員する仕組み自体は珍しいものではありませんでした。
イングランドでも弓だけでなく、武器の保有や軍事的な備えを求める制度がありました。
フランスのフラン・アルシェも、弓だけを持つ兵士ではなく、弓またはクロスボウに加えて、剣や短剣、鎧などを備える兵士でした。
ただし、一般の人々に特定の武器の「練習」まで広く求めるという点では、弓は特に目立ちます。
その理由の一つが、当時の弓が「誰でもすぐ使える武器」ではなかったことです。
強力な長弓を扱うには、日常的な訓練が必要でした。
そして、弓の時代が終わると……
ところが、火器が発達すると、この仕組みも少しずつ変わっていきます。
銃も最初から誰でも簡単に扱えたわけではありませんが、火器が軍事の中心になっていくにつれ、弓術を国民に広く訓練させる意味は次第に薄れていきました。
一方で、住民を民兵として組織し、武器を持たせて訓練するという考え方そのものは、その後も残ります。
弓から銃へ。
武器そのものは変わっても、
「普段から国民を訓練しておき、必要なときには軍事力として動員する」
という仕組みは、近代の民兵制度にもつながっていきました。
かつての「休日には弓を射る」という法律は、現代から見ると少し奇妙に見えます。
けれども、それは単に王が国民の遊びを制限した話ではありません。
弓が国家の安全を左右するほど重要だった時代に、国民の日常そのものを軍事力の維持につなげようとした制度だったのです。
まとめ
世界の弓術をたどってみると、弓は単なる武器ではなく、その土地の歴史や社会を映し出す存在だったことが分かります。
日本では、戦うための弓術が武士の鍛錬を経て「弓道」という道へと発展し、流鏑馬などの神事にもその姿を残しています。
韓国では伝統弓術が弓場の文化として受け継がれ、モンゴルでは馬や遊牧文化と結びついた弓術がナーダムの競技として今も楽しまれています。
そしてブータンでは、弓術そのものが国技。地域の人々が集まり、歌い、踊り、応援しながら競い合う、活気ある祭りの文化になっています。
一方、イギリスのロングボウからは、弓が国家の軍事力を支えるために、一般の人々まで訓練の対象となっていた時代も見えてきました。
戦場で使われていた技術が、時代とともに「競技」「神事」「祭り」「社交」「精神修養」へと変わっていく。
弓が現代まで残った理由は、弓そのものが変わらなかったからではありません。
人々がその土地に合った新しい意味を与えながら、「射る」という文化を受け継いできたからなのかもしれません。